2018年1月15日月曜日



昨年は余り多くの本は読めませんでした、が
少ない中から良い本に出会えたり、昔読んだ本を改めて読んだりも。
ただ…読みかけの本が沢山になってしまって
今日、恐る恐る数えてみたら13冊程に。
まだ読んでいない本(積ん読)に至っては…(書けません!)
(気の赴くまま、あれこれ読むのはいかがなものか)
これはなんだか、余り良い状況じゃない気がしてきました。
多分、途中まで読んだものも内容を忘れてるにきまってる!

今年は手元の読みかけ本を読破すべき!
あぁしかし...きっと、また新たに欲しい本に出会ってしまうのだろうな〜
最初から弱気ですが、笑
今再読中のページの中に、まさしくな場面が…。
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子供のとき、日曜にはある種の本を手にすることが許されていた。
普段ぞんざいに扱うというので禁止されていた本で、たとえば
立派な挿絵のある本や有名な作家のかなり豪華な版
あるいはただ大きさのゆえに特別な注意を要する本などであった。
ありがたいことに、これらの本は文学の中でもかなり高級なものであった。
そのため、私の心の中には安息日と、詩や散文の大作家の名前との間に
一つの繋がりができ上がることになった。

私は日曜日の幾ばくかをこういった褒めた事ではないが、ともすれば
すぐほうり出しがちな本を読んでゆっくり過ごしたいと思うようになっていた。
つまり、こういった本はわれわれが余りによく知りもし、愛しもしているので
それが口実ともなって、かえっていい加減になってしまい
新しさの魅力をもっている新刊にはかなわないという訳である。
ホメロスとウェルギリウス、ミルトンとシェイクスピア…。

これらの本を心の伴侶とする特権を求めるのにふさわしいと私が感じるのは
今でもなお日曜日なのである。というのは、不朽の名声で飾られた
これらの偉大な詩人たちは、生活の苦労に追いかけられるみたいに
慌ただしく接しようとする人間にはそっぽを向いてしまうからである。
ゆうよう迫らざる態度、平和そのもののような落ち着いた思索こそ
この場にふさわしいのだ。私は多少儀式ばって本をあける。

読みつづけている間、邪魔がはいることはまずない。
紅スズメのさえずり、蜜蜂のうなり声…これが私の聖所のあたり一帯に漂う音なのだ。
ページをめくる音さえほとんどしないのである。
G.G
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日曜日の読書はかくありき! 深く共感いたします。笑

今年はどんな本との出会い、読みかけの本の結末が待っているか...愉しみ。


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